「いまここに存在していること」それ自体が祝福そのものである
いま、
わたしは、生きてここに存在している
一歩外に出ると、
視界いっぱいに広がる満開の八重桜、
甘く香るつつじの花、鳥たちのさえずり
少し冷たい風、眩い太陽、大きな大きな青い空
甘い匂いに誘われて近づけば、
雨上がりのしずくの美しさに感情の機微を知る
自然=地球=宇宙
わたしがここに存在している事実を
脅かすものはどこにもない
わたしは、いま、ここに、生きて存在している
と、いうことは…
わたしは、もうすでにゆるされているということ
何も持たなくても
何もしなくても
何を持っていても
何をしても
ただ息をしている
それだけでもう「可」なのだ
全部まる、オールOK
鼻毛が生えてても
おでこにシワがあってもマルなのだ
同じように、
あの人もこの人も、すべての人が、
いやいや、人のみならず、
生きとし生けるものすべてが
等しくゆるされている
「存在している」ということは
つまりそういうこと
少し前に帰省する機会があって
お互いそれぞれ不平不満しかない父と母の間で
2泊3日も揉まれることは、
わたしにとって“試練”としか思えず
数日前から相当気が重かったのだけど、
それを聞いた友人が
「めっちゃいい機会じゃんねえ♡♡♡」
と、軽やかに言うので、驚いて訝しがっていたら
「“ゆるす”ことが本当に本当にできる時
なんじゃないかなあ♡」と、
彼女は嬉しそうにそう言うのでした
わたしはとても素直なので
「そうなのかな…?」と思い、2泊3日の間ずっと
“ゆるす”ことについて考えていたのだけど
…結局、わからなかった
この人たちはこうやって、この先死ぬまで
毎日を共に過ごす相手に対し、文句を言い合い
舌打ちをしながらも、
無意識下で実はその状況を楽しんでいるから
他の手段を知らず、知ろうともしない
わたしとは選ぶ世界が違いすぎる
としか思えなかった
カフェでカフェラテを飲めるありがたさよ…
でも、父も母もシアワセであろうがなかろうが
不平不満いっぱいで生きていようが
いまここに存在することを許されているのだ
その在り方が“わたしの趣味ではない”
というだけの話であって、そのままの生き方で
存在していていいということなんだ
“わたしが”
ゆるす、ゆるさない、ではなくて
もうすでに、
ここに存在している
“すべてが”
ゆるされているんだな
それは、まるで天国のような感覚
それに気づいたと同時に、
「ごめんなさい」
「許してください」
「ありがとう」
「愛してます」
という、有名すぎるほど有名な
4つの癒しの言葉の真理が
やっと自分のものになった気がして
心がとても静かで穏やかで心地よくて
平和そのものになった
わたしの中にあった、あらゆるすべてが
満たされて癒された気がしている
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